091.意見の対立

仕事や子育て等あらゆる場面で意見の対立がありますよね。なんの為に対立するのか今一度見直すきっかけになるお話です。

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三上:はい、みなさん、こんにちは。こころメンテナンス。本日もアシスタント三上恵と、気功ヒーラーの、

吉村:吉村竜児です。

三上:はい。吉村さん、本日もよろしくお願いします。

吉村:よろしくお願いします。

三上:さあ、今日はですね、みなさんも日頃、お仕事や子育てをしながら、パートナーとは意見が合わなかったとか、いろいろな場面があるとは思いますが、ということで、今日は、「意見の対立」を取り上げてお届けしていこうかと思います。日頃いろいろあります、わたしも。特に子育てに関しては。難しいですね。みんな、生まれた環境も違いますしね。今日、これ、なぜ、吉村さん、「意見の対立」を取り上げたのでしょうか。

吉村:そうですね。普通にひとと関わりながら生きていたら、意見が食い違うというか、自分と相手のかたの意見が、必ずしも一致していないという場面がいろいろ出てくると思うんですよ。それに対して、どう向き合って、取り扱ってくかみたいなことは、そのかたとの関係性とか、これから、何を成し遂げていこうかというところでは、重要なことになるんじゃないかなと思って、この「意見の対立」について、どう取り扱うのがよいだろうかというお話ができたらなと思って、取り上げさせていただきました。

三上:はい。とても、関心、興味があるんですけど、わたしの場合、興味のないひとに関しては、期待すらしないんですよ。興味がないから、その時間が無駄で、わたしのなかで。そこで、向き合わないんですけど。ほんとに、そのひとのことを大切に、今後もこのひとと一緒に、いたいなと思ったときには、もちろん、向かい合うんですけど、自分のなかでも、分けて、気づいてはいるんですけど、その捉え方というのは、どうなんですかね。

吉村:いいんじゃないですか。そもそも、興味がないひととの関わる時間をとるということは、別にそんなに重要な話じゃないというか、下手をすると、時間の無駄になってしまう可能性もあるわけですよね。とはいえ、今興味がないということが、これからもずっと興味がないかどうかはわからないので、お互い知り合ったら、実は結構いいとこ、いっぱいあるひとだなとか、お互いを成長させるのにいい関係性だなと気づく可能性もあるんで、ただバサッと切っちゃうのがもったいない可能性もあると思います。とはいえ、このひとと関わる時間をもっと増やしたいというひとがいれば、そのひととの時間を増やしていけば、自ずとそれ以外のひとたちとの時間は減っていくんで、興味のないひとたちと関わる必要性がなくなってくるということでもあるわけですよね。これは、僕たちが持っている肉体が1個しかなくて、同じ時間をやりくりしながら、生きているというところでは、自ずとそうなってきてしまうというのは当然の話なんで、だから、わざわざ、一緒にいて楽しくないひととの時間をずっと長くとってたら、人生のクオリティを下げることになってしまうから、そういう意味では、興味のないひとと、そこまで深く関わろうとしないということは全然ありですよね。

三上:万が一、仕事で、どうしても一緒にお仕事をしないといけない状況って、あると思うんですよ。たぶん、リスナーのみなさんも。そういった場合は、どうしたら、いいんですかね。意見が全く違う、でも、このミッションを一緒にやらないといけないとなったときには。

吉村:僕はね、日本生まれですけど、多感な時期をアメリカで過ごしたということで、日本とアメリカの文化を両方体験しているわけですけど、この意見の対立に関して、どう取り扱うかというのは、かなり、日本とアメリカでは対照的なんですよね。日本人って対立したくないから、うやむやにするということをしがちなんですよね。たぶん、狭いコミュニティのなかで生きていると、たとえば、逃げ場がない場所で、そのひとと一緒にいるしかないようなところで、そのひとと自分がすごい険悪な雰囲気になっちゃったら、日常がかなり地獄みたいな状態になってしまいますよね。そうすると、それを避けるためには、とりあえず、あんまり対立しないように、適当に、なあなあな感じで、まあまあ、いいんじゃない、みたいな感じでやっていったほうが、安全だよねという発想がどこかにあるんだと思うんですよ。それに対して、大陸で暮らしているひとたちなんかは、いつ、知らないひとが突然攻めてきて、それこそ、強奪されたりとか、皆殺しにあったりするかわからない、みたいななかで生きているから、とにかく戦う姿勢みたいなものを持っていたりとか、うやむやなことが残っているとそれがリスクになっちゃうから、全部白黒つけておこうよみたいな話に、たぶんなりやすいというのがあって、何か意見の対立があったら、それを白黒つけようというような発想から、ディベートみたいな文化があるわけですよね。僕も、アメリカに行ったときは、ディベートとか、学校で習わされるわけですよ。そこは、どっちがより正しいみたいな話じゃなくて、かなり対照的なアプローチで、意見の相違に対しての、取り扱い方が違うなという話で、どっちがよりよいか、とか、正しいかという話ではないのですけど、アメリカだと、ディベートをするから、ディベートというのは、結局どっちかの意見の立場をとって、それに対して、これこれ、こうだから、こっちのが正しいということを論理的に展開していって、勝ち負けを競うわけですよ。面白いのは、自分がどう思っているかということはさておき、自分がこの立場となったら、その立場の論を展開するんですよ。

三上:自分の考えじゃなくて、その立場に立ったことを証言、証言というか。

吉村:理屈を展開していくんですね。

三上:面白ですね。

吉村:たとえば、「外交手段としての戦争というのはありなのか、なしなのか」とか、「政府は廃止すべきなのか、続けるべきなのか」とか、「妊娠人工中絶することはいいのか、悪いのか」というのは、もし、たとえば、ディベートでチーム分けて、くじ引きみたいなので決めるわけですよ。肯定派、否定派みたいな感じで。そうすると、自分は、別に、それに対して、否定していないんだけど、否定になった場合は、否定するというための、証拠集めをしたりとか、理屈を組み立てていくわけですよね。肯定だったら、自分がそれをいいと思っていなくても、それは正しいのであるという理屈を組み立てていって、勝ち負けを競うから、ということは、それがいいか悪いかというのは、別にそれが真理として、真実として、いいか悪いかというのは関係なくて、自分がどっちの立場をとるか、どっちの立場をとったとしても、自分が勝てるかどうかということが、重要視されているわけですよ。

三上:へー。なるほど。違いますね、日本と全然。

吉村:日本だと、みんながそう思っているかというのが一番大事なことになってくるから、みんながそう思っているというほうに合わせておけば、安全みたいな話なんでね。だから、意見が対立したときに、結局、自分がほんとうはどう思っているかということは、実はそんなに重要じゃないいうのが、実は、この日本式でも、アメリカ式でも、裏に隠れている、隠れた前提なんですね。自分がどう思っているかということよりも、みんなにどう合わせるかというのが日本で、自分がどう思っているかということよりも、いかに自分のチームが勝つかみたいなのが、アメリカ式。だから、どっちにも、真理みたいなものはないんですね。

三上:自分がないですね。

吉村:どっちのほうが、ほんとうに正しいのかという話ではなくて、それをいかにして正しいというほうに持っていくか。いかにして、みんなに合わせて、なあなあに済ませるのか、穏便に済ませるのか、というような話なので、そういう意味では、これって、かなり極端に、極振りしてるんですね。おそらくは、自分も無理せずに生きていて、なおかつ、生活のなかでのリスクがある程度、おさえられて、なおかつ、みんなと仲良くいられる、みたいな話って、極端なところにはあんまりないだろうなと思いますね。その中間のあたりの話だと思うんですけど、となってくると、僕は大事だなと思うのは、何をするかということよりも、何のためにそれをやっているかということを明確にしておいたほうがいいわけですよね。となった場合に、まずは、仲良くしたいです、というのがあって、なおかつ、これが潜在的なリスクを、洗い出して、そのリスクを下げるということも大事です、その両方をうまく達成できたら、ちょうどいい落とし所が見つかるんじゃないかなって、思うわけですよ。

三上:うーん。なるほどですね。

吉村:意見が対立して、日本人が対立したときの捉え方と、アメリカ人が対立したときの捉え方で、対照的なのは、アメリカ人は意見が対立したということを意見の対立としか受け取っていなくて、相手の人格がどうこうという話は、そこに全然ふくまれていないんですよね。だから、面と向かって、「君のその考えは違うと思うよ」と言えちゃうわけですよ。別に、あなたを否定しているわけじゃなくて、その考えに対して、僕は異論を唱えています、というのが前提にあるから、言われたほうも、「なにい!」とかってなるんじゃなくて、「ほうほうほう、じゃ、その話、ちょっと聞かせてよ」というような感じになるんですけど、日本人が対立に直面したときに、起きてしまうのが、お互いの人格否定をしているという受け取り方になってしまう。そんな意見をもつということは、頭おかしい、邪悪なやつに違いない、みたいな発想になるんですよ。結局、みんなと同じ考えが正しいというのがうっすらあるから、それと違うことを言っているということは、常識はずれの、とんでもない、大悪党に違いないみたいなのが、どこかにたぶんあるんですね。

三上:あります。悪者っぽく、なっちゃいますよね。

吉村:そういうふうな自覚はなくても、お互い、どっちが悪者かみたいな話になりやすいんですよ。でも、そこって、悪者なんじゃなくて、違う意見を持ったふたりのひとが話しているんですよ、というところ。これが大事だと思うんですよね。だから、意見の相違というのが、人格否定にならないようにするには、そのひとの持っている意見と、そのひとの人間性というのは、別物だということをちゃんとわかっていたほうが、これについて、お互い意見を出し合って、落とし所を見つけようよ、というときには、すごく大事なことだと思うんですよ。そのときに、さらに、勝ち負けを競っているんじゃなくて、お互いが仲良くやっていくための落とし所をさがしているんですよ、という、ここも合意ができていたほうがいいですね。日本式の「お前の人格がおかしい」というところじゃなく、「人格と意見は違うよ」というところ。あと、アメリカの、なんかよくわからないけど、俺のが強いんだ、みたいなのは、そうじゃなくて、勝ち負けじゃなくて、お互いが仲良くするためにやっているんだよ、という、両方がうまいこと、中間のところで、どこかで調整できると、意見が対立したときに、けんかになったりとかしないで、関係性がくずれずに、なおかつ、なあなあにもならないというところが見つけられるんじゃないかなと思いますね。

三上:今日聴いて、学んだことが、意見が対立する前にクッションが必要、クッションの言葉、ちゃんと、こういう目的というか、お互いね、いい関係保ちたいから、話すんだよ、とかって、前振りというのは、大切だなというふうに、思いました。

吉村:そういうのも、いいですしね。たとえば、話すときの笑顔だったりとか、表情だったり、声のトーンだったりとかも、調整できると、さらにいいかもしれないし、できることっていろいろあると思うんですけど。大事なことは、目的は、仲良く一緒にやりながら、しかも、なあなあにしないで、ちゃんと、大事なことをきちっと合意を作るということですよね。

三上:みなさんも、対立する前に、その言葉入れておいてください。それから、意見を言ったら、どうなるかな。ご意見とかもらいたいですね。実際、こういう対立しました、みたいな話がきけたら、面白いですね。さあ、今日のテーマ、「意見の対立」でお届けしました。はい、とても、今日も、いいお時間でした。ありがとうございました。

吉村:ありがとうございました。