079.自由

自由になれたらいいのにって思った事はありませんか?
規制がなく自由になれたら幸せなのか?
深いお話です。

 

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三上:みなさん、こんにちは。こころメンテナンス。本日もアシスタント三上恵と、氣功ヒーラーの

吉村:吉村竜児です。

三上:はい。吉村さん、本日もよろしくお願いします。

吉村:よろしくお願いします。

三上:はい、今日のテーマ、私もそういう人間でありたいとは思っているんですけれども、自由ですね。縛られたくない私にとっては自由ってすごいいい言葉だなというふうに思うんですけど、はい。
でも、自由というテーマで取り上げる中で、自由とは何なんだというくらい幅が広い(笑)と思っているんですが、さあ、このテーマ自由。今日はなぜこれをテーマに吉村さん、取り上げたんでしょうか。

吉村:はい。その、世の中的にそう思われているけど、それをもう一度見直してみようよという感じで前回、前々回のお話をしてきたと思うんで、その中でこの自由ということも世の中的には大事なことで、素晴らしいことというふうな認識は皆さん持っていらっしゃると思うんだけども、果たして自由って何なのかという概念そのものをきちっと定義されているのかというところ、
ここがちょっとふわっとしたまま自由、自由と言っていても、じゃあ理想の状態はどういう状態なのということがハッキリしていないと、そこに辿り着きようがないじゃないですか。

三上:うん、うん、うん。

吉村:だから、なんだかよく分からないものを求め続けていても手に入らないんで、キチッとそれがどういうものなのかという定義を明確にしたほうがいいのかなというふうに思う感じで選ばさせて頂きました。

三上:たしかに、自由ときいて、皆さんの自由はきっと違いますもんね。ひとりひとりの自由というのは、きっと違うと思います。

吉村:うん、うん。

三上:なるほど。

吉村:自由という言葉を取り上げて、そこを単純に捉えたらどうなるかといったら、おそらく制約が少なければ少ないほど自由ってことですね。制約が多ければ多いほど不自由な感じになってくるじゃないですか。
ということは、その逆に少なくなっていけば自由という話だと思うんですよ。その考えを突き詰めていくと、究極的な自由というのは全てに一切の制約がない状態という話になっちゃいますよね。

三上:そうですね。そうなるとどうなるんだろう。(笑)

吉村:はたして、そんなものがあるのかどうかという、そこなんですね。
一切の制約がない究極的な自由というのを僕らは持ち合わせているのか、あるいは僕らが想像出来るどこかで、そういうものが存在するのだろうかと考えた時に、実際、僕らが人として生きていくにあたって肉体というものの制約の中で生きているわけですよね。
人間の肉体の中で生きているということは鳥みたいに空を飛ぶことも出来ないし、魚みたいにエラ呼吸で水中で生活することも出来ないし、僕が吉村竜児という人である限りは僕は三上恵さんという人でいることは出来ないんですよね。(笑)。

三上:ですよね。分かりますよ。

吉村:そうなると全然自由じゃないじゃないですか。その辺に関していうと、僕が改名して名前を変えるということは自由に出来るかもしれないけど、それをしたからといって僕個人が別の人になるのかといったら、そんなことはないですよね。
例えば僕が「今日、改名してきました。これからヤマダタロウと名乗ります」と言っても、多分昨日までの僕を知っている人が道端で僕に会ったら「あ、吉村さん」てなるわけですよ。だから、いってみたらその辺って、制約だらけなんですよね。

三上:うん、確かに。肉体に入っただけで、もう自由じゃないですもんね。

吉村:そうなんですよ。でも、じゃあ人としてどう生きていくかみたいな部分というのは、僕はその吉村竜児という人としてどういう選択をしていくかってなると、そこって選択肢がいくつかある中で何を選ぶかということに関しては、自由なんですよね。

三上:うん、うん、うん。

吉村:ね。そうすると自分の選択肢が、例えば1個しかないってなったら、これしか選べないわけだから、あんまり自由じゃないじゃないですか。

三上:うん、そうですね。

吉村:選択肢が2個あったら2個の中から選べるから、1個しかないよりかは自由に選べているかなとなるけど、でも、それが選択肢が5個ある人と比べたら5個の人は2個よりも3つ別の選択肢があって、その中からも選べるという自由をもっているから、もっと自由ですよねという話になるわけですよね。
そういう意味でいうと、選択肢を無限に増やしていけばいいのかという話になるのかもしれないですけど、そうするとなんかね、例えば僕の選択肢は100億あります、それを全部吟味してその中から自由に選べますってなったら、100億の選択肢をいちいち吟味するために相当の時間と労力がかかるとなると。
今度は僕が生きている時間というのは、大体決まっているわけですよね。宇宙の時間と比べたら、実はごく僅かな時間しか吉村竜児として生きていないから、その間に100億の選択肢を吟味していたら、その間にだいぶ時間過ぎちゃって、この選択は5年前に選んでくれていたらいけてたんだけど、ちょっと今は無理ですよみたいな話になってしまう可能性もあるわけじゃないですか。

三上:うーん。

吉村:そうなると「あれ?自由じゃない!」みたいな話になるんで、ということは、一切の制約がない究極の自由を目指すということ自体が馬鹿馬鹿しい話になってくるわけですよね。

三上:そうですね。今話きいて「自由って何なんだ?」って今なってます。

吉村:(笑)だからそういう意味では、本当の自由って、究極的な本当の自由みたいなものはないんですよね。
だから、せいぜい僕たちが出来ることって今ある制約の中で、どれだけ自分が自由に選んでいくかという話なんですけど、それって、あてずっぽうで選ぶとかサイコロ振ってでてきたのを選ぶというのと、どう違うのみたいな話になってきちゃうじゃないですか。

三上:うん、そうですね。

吉村:となると、結構そこで大事になってくるのは、そもそも自分がこの選択をした先に何を求めているのかという話になるわけですよ。
その人が持っている目的、目標、夢みたいなのがあって、そこにちょっとでも近づきやすそうなものを選ぼうみたいな話になってくるわけですよね。その人にとっての、言ってみたら効果的な選択ということになってくるわけですよ。
効果的な選択も1個じゃなくて幾つかあるかもしれないし、そうなったら、その中からまた自由に選ぶとか、他のその人がもっている「せっかくだから、もっとこうなりたいよね」みたいなのに近づきやすいのはきっとこっちだろうなと考えて選んだりとかもすると思うんですけど、
自由ということにこだわりすぎると制約があるということに目が行っちゃって、この制約をなくそう、無くそうみたいなことやっていると、要は制約って永遠に全部無くなりはしないから、色んな制約が目について一所懸命それを攻撃してなくそうとするみたいなこととか、あるいは、なくしようがない制約に関してだと、愚痴を言い続けるみたいな話になりかねないわけですよね。「あれがもっとこうだったらな」みたいな(笑)

三上:(笑)

吉村:「なんでも10円で買えたら良かったのにな」みたいな話になっちゃうんですよね。(笑)それってなんか馬鹿馬鹿しい話じゃないですか。

三上:うーん。

吉村:なので、どっちかというと今あるものとか状況をまず受け入れて、その中でどれだけ自分が自由に選んでいくか、自由に表現していくかってことをやるというのが、これが本当の自由だと僕は思うんです。
「制約があります」この制約の中で、どれだけ自由を探究出来るかというのが本当の自由を謳歌するとかね、求めて自分を自由に表現するとかの醍醐味みたいなのは、その制約の中にあるということが結構ポイントだと僕は思うんですよね。

三上:そうですね。今話聞いて思ったのが、子供って上手いなと思いました。
制約の中で、自分らしく、なにも無いなかで生み出して遊ぶという能力は、自分から湧き出てくるものをそのまま楽しんでいるというのは、凝り固まった大人よりは絶対、そのまま湧き出てくる感情で動いているので、あ、そういうことなのかなと思いながら聞いてましたけどね。

吉村:例えば「この公園の中の、この場所の中で好きに遊んでいいよ」と言ったら、色んなことをやり始めるじゃないですか。

三上:そうなんですよ。

吉村:ねえ。 それがね、そういうのもなく、勝手にして自由にやって公園の外に行くとトラックとか走ってきてはねられて死ぬかもしれないけど、それも自由だよと言ったらもう怖くて動けなくなっちゃいますよね。

三上:確かに、確かに。

吉村:「この公園の中だったら、ちゃんとみていてあげるから、きっと安全だから、ここで好きなことやってごらんよ」とやったら、本当に色んなことやり始めて、すごいクリエイティブになっていくわけですよね。
だから、この制約があるということが、僕らを逆にクリエイティブにさせてくれているということもいっぱいあるんですよね。
僕はね、以前インプロという台本のない即興でやるお芝居をやってたことがあるわけですけど、インプロって本当になんにもなく台本ないから、もう好き勝手やってみたいなものかと思うと、実はそうじゃなくて「なんにもありません、はいどうぞ」と言われてもなんにも出来ないんですよ。
そこにちょっと、縛りを付けるんですよね。例えば「セリフが全部しりとりになるように話してみましょう」みたいなことしたりとかね。だから「こんにちは」って、ひとりが言ったら、次のひとは「わ」から始まるセリフを言わなきゃいけないみたいなね。

三上:はー。へー、難しそう。

吉村:「私、ここよく来るんですけど、あなたも来られるんですか」みたいな感じだったら、しりとりになっているじゃないですか。

三上:「買い物でよく利用します」みたいな。

吉村:そんな感じ、そんな感じ。そうそう、そう。
突然、今そういうことをやったことがない三上さんでさえ今出来たじゃないですか。今のセリフとか、僕が「これ言ってください」と言ったセリフじゃなくて三上さんの中から出てきたわけですよね。

三上:はい、そうですね。

吉村:だからこれって、制約が一個ついただけで、とたんにすごく自由になれたということだと思いません?

三上:あ、思います。なんか、自分の中から出てきたものが繋がったという感じ、感覚が出てきています。

吉村:そうそうそう。だから、お膳立てもなにもなく「はいどうぞ」と言って、今のセリフ出てきたかというと、出て来ないですよ。

三上:うーん。うんうん、そうですよね。分かりやすい。

吉村:(笑) だから自由というのは、ひたすら制約をなくす先にあるものなんじゃなくて「今ある制約って何だろう」「このなかで出来ることって何だろう」というところから生まれてくるものなんですよ。

三上:はぁー。みなさん、リスナーのみなさん、さあ、自由のイメージ変わったんじゃないですか。いやあ、私も語りたい。なんか、こういうふうに。(笑)

吉村:(笑) 飲み会の席とかで話しちゃっても・・・(笑)

三上:そうそう。「みんな制約がなくて伸び伸びしてるけど、そうじゃないんだよ」みたいな。(笑)きっとね、自由という、この2つの漢字が合わさったものですけど、いやあ、自由って捉え方も見方も考え方も、毎回続いてますけど、深いなと思いながら。(笑)

吉村:そうですね。制約のある中で、こう色々と向き合って考えていったら、多分その先には、この制約なくすと、もっと自由になるなというのももしかしたら出てくるかもしれないから。
そうすると、どういうふうに僕らはルールを変えていったら、もっと楽しくなるんじゃないかという議論も出来るようになると思うんですよね。それが、このルールは正しいか正しくないかというところで話しちゃうと多分喧嘩になるだけなんですね。

三上:(笑)

吉村:このルールって、そもそもどういう意図で作ったんだっけみたいなね、これによって出来ること出来ないことって何だっけとか、
そういうのちゃんと考えて議論する場とかを作っていくと、僕たちの社会システムを今後どうしていくかみたいなこととかも、ただ一概に「あいつらが悪いから困っているんだ。あいつら叩きのめせ」みたいな話じゃなく、もっとね、お互い仲良く楽しくやっていくにはどうしたらいいだろうというところに意識が向くんじゃないかなというふうに思いましたね。

三上:思いますね。そうですね。同じ考え方というか、そういうふうに感じてくれる人が増えていって社会がより良くなってほしいですね。

吉村:そうですね。あと、自分と違う考え方の人をどれだけちゃんと受け止めて、そういう人達とも仲良くしていくには、どんなふうな選び方がいいんだろうとか、そういうところまで広げていけると、もっと本当はそっちのほうが自由なんじゃないかなという感じがしますよね。

三上:なるほど。今日も良い時間でした。もっと話をして欲しいんですけど(笑)
吉村:(笑)

三上:また次を楽しみにしております。吉村さん、本日もありがとうございました。

吉村:ありがとうございました。