126. 何のために産まれて死ぬのか

ハンドルネーム ぽいんこさんからのメッセージを取り上げて吉村さんからお話伺いました。

 

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三上:はい、みなさん、こんにちは。こころメンテナンス。本日もアシスタント三上恵と、氣功ヒーラーの、

吉村:吉村竜児です。

三上:はい。吉村さん、本日もよろしくお願いします。

吉村:よろしくお願いします。

三上:はい。さあ、最近メッセージが増えてきましたね。。

吉村:はい、ありがたいですね。

三上:とても、うれしいです。ありがとうございます。今日もメッセージを取り上げて、ご紹介していきたいと思います。今日はですね、ぽいんこさんからのメッセージです。まず、前回、いただいて、感想の内容のメッセージ来ていますよ。
「118回目の内容、すごく響いて、きいて初めて涙が出ました。」愛のない人、魂についての話題ですね。「わたしたちは、愛でできている。愛そのものだと、スピリチュアル界隈では、当たり前に言われているのに、自分のなかに愛が見いだせなくて、そんなことを忘れ去ってました。基本に戻ることができました。ありがとうございました」と、来ています。

吉村:ああ、よかったですね。

三上:お礼のメッセージですね。そして、後日、また、ぽいんこさんから来たメッセージなんですけど、「最近 ジョー・アレディさんという人を知った」ということで、「生まれつき、知的障害で、トレーニングスクールや、近所からいじめが続き、21歳のときに、ある事件の犯人として、収監され、無実の罪で、死刑になったという人生だったそうなんですけども、
この話をきいて、人はただ人間的な意識の良い悪いとかをこえて、経験するために生まれてきただけでは、片付けられない、無力感のようなものを感じました。そして、なんのために、生まれて死ぬのだろうと、吉村先生に改めて、きいてみたいなと思いました。よろしくお願いいたします」と来ていますね。

吉村:なるほどですね。

三上:うーん。

吉村:まあね、たしかに、僕も、自分の人生、それなりに波乱万丈だったというのはあるほうだとは思うんですけども、いろんな他の人の人生とかを、本とかそれこそ、ユーチューブとかで、紹介されているものとかみて知ると、本当になんか、計り知れないというか、こんな経験した人がいるんだとか、たとえば、そういう犯罪の被害者とか、加害者になってしまう人がいるんだなって、すごく氣の毒な人生だなって、僕も感じるケースって、すごいあるなと思うんですよね。

三上:うんうんうん。

吉村:そこに関してね、そういうお話をきいて、無力感を感じられるというところでは、たぶん、その人にはどうすることもできない、不幸みたいなものにね、からめとられてしまった人たちみたいな、見え方がするから、たぶん無力感を感じられているんだろうなというふうに思うんですよ。
それに関していうとですね、なんのために生まれて、死ぬのだろうという、ここの部分が、結構重要かなと思ってるんですよね。これも、諸説あるでしょうし、いろんな、哲学や宗教が、一所懸命、これについての答えを出そうとしてたりとか、あるいは、その哲学なり、宗教なりの、これが答えだみたいな、主張があったりするわけですけど。
正直なところ、何が正しいかって、僕も絶対的にこれが正しいと言えるわけではないんですけど、いろいろと、いろんなことを総合して、辻褄がが合う答えというのを、僕なりに、さがしてみたところ、僕がたどりついた結論としては、僕たちは自分たちの人生を通して、なにかゲームをやっているんだと思っているんですよね。

三上:うん。ゲーム。

吉村:はい。ゲームの目的というのは、抽象度の高いことだから、いろんなかたちで表現できるとは思うんですけど、どんな状況からでも、その人なりの、これでいいのだ、みたいなね、状態を見つけ出すということが、このゲームのひとつの趣旨なんじゃないかな、と思うんですよね。
それって、もう少し、平たい言葉でいうと、たぶん、人生で、人生を通して、自分の幸せとか、楽しさとか、そういうものを探究していくということが、目的じゃないかなと思っているんですよ。

三上:うーん。

吉村:だから、ゲームをやっているということは、遊びに来ているということだと思うんですよ。遊ぶことの目的って、楽しむことなわけですよね。

三上:はい。

吉村:だから、その人なりの、楽しさとか、幸せとか、というものを探究することが、このゲームの趣旨だと思ってるんですね。

三上:うん。

吉村:だから、たしかにね、ゲームということは、なにかしらある意味、しばりがあって、そのしばりのなかで、自分がたとえば、目標を達成できるかどうかとか、なにかクリエイティブな表現ができるかどうか、みたいなことをやってるわけですよね。

三上:はい。

吉村:これが、なんにも制約がない、ハードルが全くない、ただ1本道を、とぼとぼ歩いていくだけのゲームとか、つまらないじゃないですか。

三上:うん。

吉村:だから、いろいろと、ハードルが出てきて、それをこえていくとか、選択肢が出てきて、どちらを選んだかによって、その行き先が変わるとか、そういうようなことが、言ってみたら、ゲームのなかでは、現れてきて、それを含めて、楽しむことが目的だと思うんですよね。

三上:うーん。

吉村:なので、ある意味、その、知的障害を抱えているとか、っていうのは、大きなハンデなわけですよね。ハンデであると同時に、言ってみたら、チャレンジみたいなところもあるわけですよ。簡単なゲームで、ある程度結果が出せれば、もう自分は、このレベルのゲームだったら、大体、目標達成できるだろう、というふうになってきたら、もうちょっと、難しいゲームにチャレンジしてみたいなっていうふうに思うこともあると思うんですよね。
なので、いろいろと、スタート地点がマイナスだったりとか、大きな、身体的だったりとか、脳の発達とかに、ハンデをもってるとかっていうのは、言ってみたら、ゲームの難易度が高いということ、というふうに言うこともできると思うんですよね。ゲームでたとえるならば。

三上:うーん。

吉村:となると、必ずしもそれが、その人にとって不幸なことだけではなくて、より難しい条件で、ゲームをクリアするということにチャレンジして、それが、うまくいったのか、いかないのか、というところも含めて、その人のゲームとしてのチャレンジなんだと思うんですよね。

三上:うん。

吉村:だから、実際に、このゲームをやりに、この世界にやってきたと仮定したら、もちろん、それが、うまくいっている人もいれば、うまくいっていない人もいると思うんですよ。別に頑張ろうが頑張るまいが、必ずゴールにたどり着けますよ、というゲームと、
もしかしたら、期待したようなゴールにたどり着けないという、リスクもあるけど、そのなかで、全員ゴール目指して頑張ってみましょう、みたいなものと、どっちのほうが、楽しいか、みたいなね、スリルが楽しめるものなのかとなると、やっぱりなにかリスクがあって、それを達成できるかどうかという、ゲームのほうがたぶんやり甲斐はあるんじゃないかと思うんですね。
それをやり遂げたときの、達成感だったりとか、得られる喜びが、より大きいんじゃないかと、思うんで、なので、すべての人が、必ずこのゲームで成功して、みんな幸せになれます、というわけではないけど、その人なりの、設定のなかで満足をするとか、幸せを感じるということを目指しているんだとしたら、
もしかしたら、この、ジョー・アレディさんの魂というのは、死刑執行されるときに、もしかしたら、なんかいろいろあったけど、自分の人生、これでよかったんだ、と思えて人生終えたかもしれないし、もしかしたらなんか自分なんでこんな目にあってるんだ、不幸だと思って、亡くなられているかもしれないし、

でも、それっていうのは、結局のところ、その人のゲームをチャレンジした結果なわけですよね。

三上:うーん。そうです。その人しか、わからないですもんね。

吉村:そうなんですよね。だから、スポーツの試合とかでも、たとえば、勝つことがすべてと思ってやっている人たちも、もちろん、いるんですけど、いや、負けることも含めて、スポーツだし、自分の好きなチームは、勝っても負けても、応援するぞという人もいれば、勝ってるときは、すごいわーっと騒ぐけど、負けたら手のひら返しでやっぱ駄目だ、と言う人もいるし、というところなんですけど、結局のところ、宇宙からみたら、別に、このチームが勝とうが負けようが、たいした話ではないということでもあるんですよね。
それは、自分がどういう氣持ちでそこに関わりたいかとか、どういう氣持ちで応援するか、というようなこと、その人の氣の持ちよう次第なんですよ。

三上:うん。

吉村:となると、どんな人生でも、じゃあ、ここから自分のことを最大限応援して、自分ができる最大限のプレイをするぞと決めたら、別に、それで勝っても負けても、やりきったら、それはそれでいいんじゃないかなと思うんですよね。
それは、まあ、もちろん、いろんな考え方があるから、なにが正解かはわからないですけど、ただ、結局勝ったらちやほやするけど、負けたらとことん叩くみたいな発想だと、その姿勢が、また、自分に返ってきちゃうから、それって、自分が勝ってるときはいいかもしれないけど、自分が負けてるときには、結局、すごい自己否定が起きちゃう可能性にもつながるわけですよね。
て、かんがえたら、結局すべては、良くも悪くもなくて、それに対して自分がどう向き合うかということで、そのことに対して、自分が自分にとってポジティブな解釈ができるかどうかということが、大事なんですね。

三上:うーん。

吉村:それがだから一瞬のことだけじゃなくて、ちゃんと中長期的にみても、自分にとってポジティブな解釈かどうかというのは、結局周りの人たちとの人間関係とかによって決まってくると思うんで、だから自分だけよければいいという発想だと、瞬間的な「よし勝った」みたいな満足感は得られるかもしれないけど、それがちゃんと継続的に続く幸せにはつながらないから、だから、ちゃん、周りと調和したうえで、自分が本当に楽しめるとか、幸せを感じるということを、選んでいくと、たぶんこのゲームはうまくいきやすいですよ、ということが、僕がいろいろなところをみてきたなかでたどりついた、ひとつの結論なんですよね。

三上:うーん。なにか、こうドキュメンタリーの話をきいているような深い内容だと。

吉村:ははは。

三上:氣がしますけど、ぽいんこさんからいただいたメッセージ、はじめですね、ジョー・アレディさんの話から、スタートしていろいろなんのたまに生まれて死ぬのだろう、という言葉の話から、いろいろな話につながりましたけども。
今回、生まれてきたわたしたちの、ゲームのなかで、ポジティブな解釈でとらえていくと、調和した人生が送れるよということで、わたしもアドバイスぽいんこさんも響いていると思いますので、リスナーのみなさんも、ちょっと、それを頭に、はい、色々考えるきっかけに、今日、なったと思います。本日も素敵な話題を、そしてぽいんこさん、メッセージをありがとうございました。感想もお待ちしておりますよ。本日も吉村さん、ありがとうございました。

吉村:ありがとうございました。