084.人生は修行なのか?

魂を磨き続ける人生は修行なの?
今ある人生において修行は大切なの?
気になる吉村さんのお話伺いました。

 

感想、ご質問はこちらにお願いします!
https://forms.gle/HhW7cXuA345QYmDZ7

YouTube:
https://www.youtube.com/c/kokoro-me
Web:
https://m-e-science./com

==================
◆文字起こしはこちら↓

 

三上:みなさん、こんにちは。こころメンテナンス。本日もアシスタント三上恵と、氣功ヒーラーの、

吉村:吉村竜児です。

三上:はい。吉村さん、本日もよろしくお願いします。

吉村:よろしくお願いします。

三上:はい。さあ、今日のテーマ、私達生きている今のこの時代、「人生は修行なのか」

吉村:(笑)

三上:どうなんでしょうか。教えてください。(笑)ということで、テーマ「人生は修行なのか」で、吉村さんに色々聞いていこうかなと思うんですけど。

吉村:はいはい。そうですね。結構そういう言い分というのは、よく耳にするんですよね。例えば、ちょっと厳しめの宗教とかに入られてる方達だったりとか、結構昔ながらのそういう、精神世界のことを扱っている人達は、大体そういうことをおっしゃっている場合が多くて、「修行をして魂を磨いていくことが目的なんだ」ということをおっしゃる方達、多いなと僕思うんですけど、そこでちょっと僕は、やや「あれ?」と思うところがいくつかありましてね、

三上:はい。

吉村:普通、練習するとか、練習してなにか技能を身につけるみたいなことって、修行ってことじゃないですか。

三上:はい。

吉村:だから、何かの練習をするということは、何かの技術を身につける、技能を身につけて、例えばその世界でプロとして活動できる自分になるとかね、目的があってそのための練習をするわけですよね。そうすると、その目的、練習って、目的のための手段であって、練習すること自体が目的ではないじゃないですか。

三上:そうですね。例えば、試合に出るために練習して、という目的がありますよね。

吉村:そうですね。そう考えると、人生は修行をして魂を磨く、その修行が目的なんだとなったときに、「その修業って、なんのためにやってんの?」みたいな感じがするんですよね。魂を磨くといっても、「魂を磨いたらどうなるの?」ということが、あんまり見えてこないんですよね、その話だと。

三上:うーん。

吉村:なので、本当にそうなのかなという疑問が、僕は出てきたんですよ。

三上:今、お話聞いて、私もずっと修行はしたくないです。

吉村:ねえ、そうですよね。ずっと修行だったら、いつまでも、試合に出ることもなく、ただなんかね、ウサギ跳びをし続けるみたいな話。

三上:(笑)

吉村:「ええー、それほんとにやりたいの?」って話になっちゃいますよね。実際そういう感じで顔色が土みたいな状態になって、苦しい人生を生きている方達というのも、目にしてきているわけですよ。本当にそれが、すごい、行くところまで行くと、人生楽しんじゃ駄目だみたいな言い分とかにもなっちゃうわけですよね。
苦しんで修行をすることが目的だから、楽しむべきではないみたいな、自己啓発の厳しいやつとか、ちょっとその、変わった宗教みたいなのに入られている方達の話をきくと、そんなようなお話が多いんですよね。
実際その人達は確かに端から見てても、そんなに幸せそうに見えないわけですよ。そうなると、何のためにやっているんだろうという感じがするんですよね。今苦しい思いをして、死んだ後に天国で幸せになるために、今この苦行を耐えているのであるというような話があるんですけど、「実際、それ見てきたの?」というのは、ちょっとわかんないですよね。
なので、目的があってそれに対して修行をするというのは、全然ありだと思うんですけど、目的がはっきりしてないのに、ただ人生の目的自体が修行そのものである、みたいな捉え方をすると、別にそれが正しいか、正しくないかはわからないけど、正直、目的がはっきりしないまま何かをやるというのは、迷子になる一番の要因なわけですよ。目的地がわからないのに、まず歩き出しちゃうみたいな、ね。
その辺を散歩、散策したいんですと言ったら、それはそれで散策という目的があるじゃないですか。これが、目的が全然わからなくてただ歩き出すっていったら、アルツハイマーの入っちゃった人が、徘徊してるのとあんまり変わらない状態になっちゃうわけですよ。

三上:そうですね。(笑)

吉村:なので、別に、修行という捉え方もいいとは思うんだけど、何のためにこれをやっているのかというのを、ちゃんと自分がはっきり形として腑に落ちる、成果が得られるような目標を立ててやらないと、それこそ死んだ後に天国で幸せになれるはずだと思っていて、苦しい思いを一生してきましたってなって、死んだ時に思っていたのと違ったら、その間の修行全部、無駄になっちゃったっていうことになりかねないわけですよね。

三上:そうですよね。死ぬ間際に、きっと感じることがたくさんあるんでしょうね。

吉村:本当に修行をするためだけに、この世界に来てるんだとしたら、その先に何か修行をして何か得られる成果があるはずだと思うんですけど、でも人は結構何度も繰り返し輪廻転生を繰り返してこの世界に来ているわけですよね。だから、そういう意味では、僕達は結構この世界のリピーター率が高い、この世界が結構リピート率が高い世界で、みんながリピートして来ているわけなんですよね、
でももし、本当に死後の世界で幸せになるために、今苦しんで修行をしているんですっていう話だとしたら、みんながそれをやっていてもおかしくないし、この世界に幸せとか喜びって無いはずじゃないですか。
だから、実際に僕達は、大変な状況を乗り越えて、それによって親しい人との関係、絆がより深まって、これが自分の幸せに繋がるみたいな、そういう経験とかを自分自身でしていることもあるでしょうし、周りの人達がそういう経験をしているのを目にしてきているわけですよね。
ということはこれが、人生苦しい思いをして修行をすることが目的なんです、となった場合、そういうこの世界における喜びとか感動とかってものが全部、真の、死んだ後に天国に逝くことを邪魔する誘惑みたいなものなのかみたいな、そういう理屈になっちゃうんですよ。
実際、そういう理屈で生きている人達っていると思うんですよね。例えば僕、アメリカに行った時に最初に入った高校って、結構厳しいキリスト教の学校で、そこもかなり、現世的なものは全て悪魔の所業で、聖書の教えに沿って生きることだけが、真の天国へ逝く条件だ、みたいなことを言ってたわけですけど、その学校の先生方とか、教会の牧師さん達とか。
それでその人達が満足してるなら、それでもいんですけど、それを今度周りの人達に押し付け始めると、押し付けられた人達は、結構苦しい思いをすることになるわけですよね。それこそ高校生時代の僕とかはかなり、自分自身の、自分が幸せに生きるということに対して、かなり罪悪感を植え付けられちゃったりした時期もあるわけですよ。

三上:えー。

吉村:好きなことばっかやってると地獄に落ちるぞ、みたいなことをずっと言われ続けていると、もしかしたら、そうなのかもしれない、地獄怖いなみたいな感じになるわけですよね。

三上:そうですね、洗脳じゃないけど、ね。うん。

吉村:そうそうそう。それも僕、問題起こしてそこの学校退学になっちゃったんで、別の高校に編入してるんで、そっちではまた全然、先生の子供達に対する接し方とか全く違ったから、だいぶそれで僕は救われたし、そのおかげで学校で勉強することも楽しくなってきたから、成績も上がってちゃんと州立の大学に進むこともできたりとかっていう、目に見える成果を生み出せたんですよね、少なくとも。

三上:うん。

吉村:だから、ここの世界で、全く目に見える成果がないままで、死んだ先にあるかどうかもよくわからない天国のために苦しい思いをし続けるというのと、着実に一個一個、目に見える成果を積み上げていく、その間にもたくさんの幸せだったり、感動だったりというのを得られる人生と、どっちを選ぶかという、最終的にはそういう選択の話にはなっちゃうと思うんですけど、
僕はいつ来るかわからない、天国での永遠の喜びというよりも、色々良いことも悪いこともあるけど、その中で一歩一歩進んでいって、自分の人生がちょっとずつ良くなっていく、それこそちゃんと修行をしたら、それに見合ったレベルアップがついてくるみたいな、そういうゲームみたいなのをやってるという捉え方でこの人生を生きていくほうが、僕は幸せだなと思うんですね。

三上:私も同じくそう思います。

吉村:だから、本当に、他の宗教のことを悪く言いたくもないんですけど世の中には、神の教えに背くやつはぶっ殺してもいいんだ、みたいなことを教えとして伝えている宗教とかもあるわけじゃないですか。だから、神の教えに背くやつらをたくさん殺せば、それで天国に行けるからっていうふうにして、小さい子供に爆弾もたせて、自爆テロやらせたりするような人達も世の中にはいるわけですよね。
それって多分、その宗教を信じている人達全員が、それをよしとしているということは、僕はないと思うんですよ。
だから、一部の過激な捉え方、極端な捉え方をしている人達が、そういうおかしな方向に行っちゃうのかなと思うんで、だからバランスをちゃんととって生きていくためには、何かしらちゃんと、目に見える指針であったりとか、ちゃんと今、これがうまくいってるのかなということを常に確かめながら進んでいくということは大事だと思うんですよね。

三上:うーん。確かにそうですね。こういうこともあるけど、ああいう、自分でやっぱりセンサーはって、色んなのを見て、最終的に自分で判断するというのは、本当にね、大切になってきますし、それも次の世代の子供達に、子供達だけでなく、親の環境とかそういう周りの環境って受けやすいと思うので、まだちっちゃい子供なんて、選択なんて選べないので、やっぱり私達大人自身が色々学んで、子供達にも良い環境を作ってあげるというのも大切になってくると思いますね。

吉村:そうですね。だから、何も考えないでとりあえずウサギ跳びしとけというような、それは僕はちょっとね、少なくともこれからの時代にはそぐわない考え方、方法論かなと思うんで。
だって、ウサギ跳びをしたことで、この競技のこの部分のパフォーマンスが実際に上がりましたとかっていうのって、ちゃんと検証すれば本当に上がるのか、上がらないのか、ただ足を痛めるだけなのかというのは、わかるわけじゃないですか。実際にそれをスポーツ科学の人達が検証してきた結果、ウサギ跳びはやらない方がいいんじゃない、というような結論になったわけですよ。

三上:(笑)

吉村:だから世の中、そういう思い込みでこれが正しいって思ってやられていたことが、よくよく検証したら、これはあんまり意味ないんじゃないとか、かえって逆効果だよねということがわかったということが、いっぱいあるわけですよね。

三上:(笑)そうですね。今日みなさんお話聞いて、さあ、修行は必要なのか、そうじゃないのか、色んな考えがあると思いますが、みなさん今日お話を聞いて、どう思われたんでしょうかね。色々感じていただける時間になったと思います。
今色んなテーマでお届けしているんですけど、是非みなさんから感想とかご要望とか、次回こういったテーマ、取り上げてほしいとかっていうのがあったら是非、リンクの方からコメントとかメッセージを頂ければ嬉しいなと思いますのでね、是非みなさんからのメッセージをお待ちしております。はい。吉村さん、本日もありがとうございました。

吉村:ありがとうございました。