075.ジャッジしたがる人

氣がつけば自分へのジャッジ、他者へのジャッジしていませんか?
癖になっていませんか?
吉村さんからジャッジに関するお話、いろいろ伺いました。

 

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三上:皆さん、こんにちは。こころメンテナンス。本日もアシスタント三上恵と、氣功ヒーラーの、

吉村:吉村竜児です。

三上:はい。吉村さん、本日もよろしくお願いします。

吉村:よろしくお願いします。

三上:今日のテーマは「ジャッジしたがる人」。よく吉村さんの会話の中でもジャッジっていう言葉も出てくると思うんですけども、これは個人的な私の意見なんですけど、女性同士が集まるとよくジャッジの話が(笑)。

吉村:おお、そうなんですね。

三上:出てくることも多い氣がするんですけど、最近は私その場から離れるようにしてはいるんですけど、結構多い氣がするんですけども。これ、やっぱりジャッジしたがる人っていうのは、他人の評価とかも含めそうなんですけど、元々こういった癖がついてるんですかね。どうなんですかね。

吉村:ああ。なるほど。

三上:本来であれば、きっと初めはみんなそういう感情というか、ジャッジせずに最初の赤ちゃんの頃とかっていうのはきっと。いつの間にかジャッジをしだしてきてると思うんですけど。なぜジャッジをしたがるんでしょうか。

吉村:なるほどですね。これは、まず一つには人は全てのジャッジを手放すっていうことはできないんですよ。

三上:うんうん。

吉村:というのが、僕たちの肉体っていうのがものすごい条件を持っているからなんですよね。例えば、健康に生きていくにあたって「健康に生きていきたい」って思っている時に毒を飲んだら死んじゃったりとか、死なないまでも健康に害が及んだりするわけじゃないですか。
ということは、肉体にとって毒っていうものが存在しているっていうことですよね。そうすると肉体は、体に取り入れるものが体にとって有益なものなのか有害なものなのかっていうのをジャッジせざるを得ないんですよ。

三上:うーん。

吉村:だから、その有害なものを避けて有益なものを取り入れるみたいなことをやり続けないと、幸せに健康に生きていくことができないんですね。なので、例えば、赤ちゃんとか、何でも口に入れようとしちゃうじゃないですか。

三上:はい、何でもね。おもちゃとかね、何でもね。

吉村:それって、おもちゃとか、その辺に落ちてるものに対して特にジャッジがないから、何でも「興味がある。口に入れよう」みたいなことをするわけですよね。

三上:しますね(笑)。

吉村:(笑)親としては、それを良しとするわけにはいかないわけですよ。なぜかというと、喉に詰まらせて死んじゃうかもしれないし、後でおなかが痛くなるようなものを食べちゃったりすることもあるわけじゃないですか。だから、そういうものを口に入れそうになったら「こら、やめなさい」って言わないといけないわけですよ。
だから、そこはジャッジっていうものがどうしてもゼロにはできないということがあるので、そこをいかに最低限の状態にしていくかっていうところで、魂としての、その人が幸せに生きていけるかってところにつながってくるわけですよね。
だから、肉体として健康に生きていくっていうことと、魂が幸せに生きていくっていうこと。この2つの条件が人間として生きていく、健全に生きていくことに関わってくるわけですよね。

三上:うーん。

吉村:これが「肉体はとりあえず安全に健康に生きていますよ。だけど魂が全然ワクワクしていませんよ」ってなったら、それでも結局エネルギーがどんどん下がっていって病気になっちゃうわけですよ。だから、肉体だけを健康にしておけばいいって話でもないし、魂がワクワクすることだけに集中して、一切体を休ませたりしないで、ずっと何かをやり続けるとかってやったら、そのうち体が具合悪くなって早死にしちゃったりすることもあり得るわけですよね。

三上:(笑) そうですね。

吉村:(笑) だから、その辺のバランス感覚が大事なんですけど、でも結局そこの「バランス感覚が大事だよね」とか「肉体と魂って、そもそも別のシステムで、別の目的っていうのかな、条件を持って共存してるんだよね」とかって話って、別に学校で習ったりしないわけじゃないですか。

三上:しないですね。

吉村:そうすると、大体世の中の風潮っていうのかな、一般常識的な話っていうのは、基本的にはジャッジに基づいたものに今のところなっちゃってるんですよ。「魂ワクワクさせましょう」とかって言ってる、学校でそんなこと先生に言われないじゃないですか。

三上:言われたことない(笑)。

吉村:(笑) ないですよね。だから、「人に迷惑かけないようにしなさい」みたいなこととかですね、親から言われたこととかになると。だから、大体何か良くないことを想定して、それを避けるっていうような文脈で教育とかずっと受けているわけですよ、刷り込みとかを。
そうすると、ジャッジすることが当然のことっていうふうに思って育ってくるっていう環境がもうできちゃってるんですね。

三上:うーん。

吉村:学校でだって成績つけられるけど、テストで100点満点からどれだけ間違えて減っていくかみたいなことで「はい、あなたは今回のテストでは30点。赤点ですね。追試を受けてください」とかっていうような話になるから、要は減点されないように生きていかなきゃいけないっていうような発想で世の中全体が回っているわけですよね。
少なくとも、日本の世の中は結構その傾向が強いなと僕は思うので、そうすると、何もないところから何か新しいものを生み出して「わあ、楽しい」みたいな話っていうのは、「どこかファンタジーの世界でそういうのあるらしいけど、ここにはないよね」みたいな感じで(笑)過ごすことになっちゃうわけですよ(笑)。

三上:そうですね、確かに。特に日本の場合は個性をちょっと出しづらいことも多いかなっていうふうにも思ったりしますけども。実際相談でもジャッジのお話がよく出てくるそうですね。ライブ配信とかでもね。

吉村:そうですね。だから、結構自分たちがジャッジしているっていう自覚がないままにジャッジしているっていうことが、苦しみの原因になってるって方がすごい多いんですよ。結局、それが当たり前のこととして刷り込まれちゃってるから、ジャッジすることで結局自分を苦しめているんだなっていう自覚がないので、ずっとジャッジし続けているわけですよ。
他者をジャッジするっていうことは、自分のことも結局同じようにジャッジすることになっちゃうので、そうすると、要は人に対して批判的な考えとかを持っていて、そういう発言をよくしている人っていうのは、どこかで自分も他の人から同じように批判されているんじゃないかっていうことをいつも心の中に持っているわけですよね。
だから、それに対して恐れや不安を持つようになっちゃうから、じゃあ自分が批判されないためにはどうすればいいのか、みたいなことを考え始めると、要は相手の言いなりになって無理して尽くしたり貢いだりみたいなことをするようなことになっちゃったり、あるいは相手を支配下に置くことで自分に対して批判的な態度を取らせないようにしようってしたりとかっていうような、そういうまた対立みたいな攻防が起きたりするわけですよね。
だから、大体未知なものに対して恐れがあって、それをどれだけ避けるかとか安全を確保するかみたいな、外敵から身を守るためにはどうすればいいかとかって発想で全てのものができているので、結構細かいところでも知らず知らずそれをやっているから、だからちょっと自分と考え方が違う人とかがいると、「あの人ちょっと変だよね」とかっていうような話になっちゃったりするわけですよね。

三上:いやあ、結構周りは多い氣がしますね。後から氣付かされるんですね、私もいろいろと。うーん。

吉村:そうですね。だから、そこら辺って結構また国とか文化でも多少違うんだろうなって思いますけどね。僕は15歳からアメリカに住むようになって、周りの人たちの、ちょっと変わった人に対する接し方っていうのが真逆なことに氣が付きましたね。
日本だと、ちょっと変わってる人っていうのは「あいつ変だよね」みたいな、批判される対象になりがちなんですけど、アメリカだと、ちょっと変わったところがあると、「面白いよね、あいつ」みたいな感じになるわけですよ。
それももちろん、相手に不快感を抱かせるような変わり方なのかどうかってところでも変わっちゃうと思うんですけど、例えば、日本だと出る杭は打たれる的なところがあるから、周りのみんなよりちょっとパフォーマンスが高いっていうことが、結構排除される要因になったりすることがあったりするんだけど。

三上:多いですね、はい。

吉村:アメリカだと、パフォーマンスが高いイコール一目置かれるっていうふうになりやすいので、そうすると、ちょっと他で足りないところがあっても、「いや、あいつはあれに関してはすごいから、だからすごい奴だよね」みたいな。駄目なところもあるけど、でもあれに関してすごいからすごい奴だよね、みたいな話になりやすいんですよ。
だから、ちょっと変わり者の人にとっては住みやすい環境だったなって僕は思うんですよね。ただ、とはいえアメリカもじゃあいじめはないのかと言ったらそんなこともなくて、日本とは違うタイプのいじめみたいのがあるから、だからどっちのほうが正解っていうのはわかんないですけど、少なくともアメリカは一芸に秀でていることが一目置かれるから、そうすると起業家みたいな人たちが生まれやすいだろうなっていうふうに思うわけですよね。
日本だと、そういう教育をしてないから、多分みんなをサラリーマンにするための教育をしてるんだろうなって話があるので、そこら辺でも、じゃあ何を基準に優劣をつけているかっていうところで、ジャッジのものさしが違うから。

三上:そうですね。

吉村:そこも結局形を変えて違う基準でジャッジしているだけって言えなくもないわけですよね。例えば、アメリカだったら「平凡なことは駄目なこと」みたいなジャッジをされるわけだし、日本だと「ちょっと変わっていることは駄目なこと」ってジャッジをされるので、それって、世の中が全部ジャッジを基に組み立てられているから、ジャッジ的になっちゃうのはある意味世の中の刷り込みとか教育の通りに生きていたら、そうならざるを得ない氣もするんですよ。
だから、ボーッと生きてたらそうなっちゃうよね、みたいな話だと思うので、自分でそこで氣が付いて「あれ?ジャッジしてることで自分は苦しくなってるのかな」って氣付いてもらえれば、ジャッジしないっていう、これをいいっていうジャッジをするのか悪いっていうジャッジをするのかの間で揺れ動いているんだけど、そもそもジャッジしないっていう選択肢が実はあるんだけど、そこが見えていないわけですよね。
だから、良くも悪くもないっていう、第三の選択肢みたいなことに氣付くことが、サイクルから抜け出せる突破口になるんじゃないかなと思いますよね。

三上:それも含めて、やっぱり自分も満たされていないといけないですね。

吉村:そういうことですね。

三上:うーん。いろいろ話がつながってきますね(笑)。

吉村:これがいいのか悪いのかっていう発想じゃなくて、良くも悪くもないよねっていうのが、実はそこに隠れているというところにちょっと氣付いてもらうといいんじゃないかな。だから「ありのままの自分でいいのか悪いのか」って「別に良くも悪くもないです」っていう。
「ありのままなんです」っていう。「ありのままでOKなんです」っていうことですよね。そうなると、またちょっと違って見えてくるんじゃないかなと思いますよね。

三上:はい。さあ皆さん、今日もいい時間でしたね。今日は「ジャッジしたがる人」。あなたの周りにもいませんか?あなたはジャッジしていませんか?今日もいいお話をたくさんありがとうございました、吉村さん。

吉村:はい。

三上:今日は「ジャッジしたがる人」でお送りしました。本日もありがとうございました。

吉村:ありがとうございました。